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マッケンジー先生自叙伝 Against the tide:18

いよいよ、理学療法士としてのマッケンジー先生の進撃が始まります。

この章の後半には、いよいよあのMr.Smithが登場しますので、さあ、楽しみですね。

それまで、まだ、しばらく、しばらく、、

では師匠、どうぞ。

 

第四章 修業期間のはじまりと結婚と

ウェリントン病院でアンドリュー女史と久しぶりに会うたんですが、彼女はそらもう大怒りでした。長いこと休んで、またそれを延長までしてからに、どないな理由があったのや、いうて怒りまくってはりましたわ。軍の命令には従わなしゃあないですやんか、というような言い訳は全く聞きいれてもらえんでしたし、全く情状酌量の余地なし、といった感じでしたなあ。

病院での3年間の予定での研修が始まろうとしてました。

シルバーストリームでは脳由来の麻痺症状、卒中やら神経疾患、長期入院の整形外科疾患の患者さんが多くいてはりました。その当時、こういうような患者さんに対して治療としてできることがほとんどなかったわけですさかいに、我々セラピストとしては患者さんの動きをちょっとでも良うすることなら何でもしとった、というのが実情ですわ。整形外科の患者さんで術後に動きを良くするためにがんばってはるような患者さんは、また別の話ですけどね。ちゅうても、その回復もホンマにゆっくりしたもんで、1週間やそこらではほとんど何にも変わらんぐらいでしたけど。

患者さんらのためにわたしらに出来ることが、ほとんどなんもあらへんなあ、ちゅうんがホンマにストレスでした。3年ぐらいしたら仕事に対する熱意も冷めてしまうんやなかろうかとも思とりました。若さゆえの短気もあったんでしょうか、私は自分の治療で患者さんが劇的に良くなったりせんかなあと思てました。そんな想いに反するように、1週間もたたずに循環器系や呼吸器系の合併症で患者さんがバタバタ亡くなっていきはるんです。シルバーストリームではジョイのそばにおられるのや、いうことがたった一つの慰めでしたなあ。

私はニュージーランド理学療法士学会のウェリントン支部に属していました。6人だけの小さなグループでした。ある日、会員のキース・リットソンが電話をかけてきて、70歳になる理学療法士のアデリン・オコナーが心不全になってご自身のクリニックを続けられんようにならはったんで、彼女のかかりつけ患者さんを診てもらわれへんやろか、というてきたんです。オコナー女史は1919年から診療をしてはりました。第一次世界大戦を実際に戦った兵隊さんらが戻ってきはったんが、丁度そのころですなあ。多くは重傷を負っておられて、オコナーさんはマッサージや電気治療や運動なんかの指導をしてはったようでした。

キースの申し出に私はエライ興奮しましたが、もっと驚いたのは、私がその責に耐えられるやろとキースが考えてくれてたのや、いうことです。そやけど、現状を考えるとこのニッチもサッチもいかへん状況では、その申し出は受け入れられへんと言うしかありませんでした。このことがあったすぐあとで、陽気でおしゃべり好きな患者さんと、残念やなあというてしゃべっていました。この患者さんはニュージーランドではじめて金属製の人工股関節の手術をうけはった方で、私は手術のあとの動きをよくするためのリハビリを担当してたんでした。なんと!晴天の霹靂で、彼女がお金を貸してくれはるようなハナシになったんです。それで奨学金の返済が帳消しになって、私はお礼奉公として病院で働き続けんでもようなったんです。奨学金を返済し終わるんなんや、はるか遠い出来事かと思てたんですが、ひょんなことでのこの申し出をありがたく受けさせてもらうことになりました。

そういうワケで23歳にして、たった6ヶ月の病院勤務経験だけで私は自分のクリニックを始めることになりました。1953年12月7日、ウェリントンの64テラスという場所でした。真珠湾攻撃の日に重なるんで、こらまた縁起がエエのか悪いんかどっちやろうかと思うてたもんですわ。

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