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マッケンジー先生自叙伝:Against the tide 34
あらまあ、師匠、Mulligan先生とお友達でしたんですね。意外な、、。
バリバリの徒手療法をされていたマッケンジー先生が、どのように徒手療法への興味を失い、セルフエクセサイズを重用されるに至るのか、今回からの第6章ではその辺が明らかになります。
マッケンジー法の講習会に集まってこられる先生方の話を聞いていると、徒手療法のゴッドハンドでそれまでやってこられて、結局、診療の場で症状を治すことができても、患者サンが次に来院されるときにはほとんどのケースで元に戻ってしまっているのに気づいて、セルフエクセサイズを徹底させないと治療としてあまり意味がないと話されている方が少なくありません。
治してもらった人は、また症状が起こってくれば、治してもらいに行かなけりゃいけません。
自分で動いて、自分で治せるほうが、、いい!、、ですよねえ。
さらに、、、 痛みを取るのを目的とするのではなく、というと、それは治せないことの言い訳じゃあないのか、との突っ込みが入りそうでもあるんですが、痛みを消失させることに主眼を置くのではなく、痛みとの付き合い方を知るというのが大事なんだと思います。
痛みは忌避すべき災い、というだけではなく、今までの生活、動作、姿勢が、このままじゃああかんよね、と教え諭してくれる反面教師なのだとも思っているのですが、、、
でもまあ、痛いのはつらいですわいな。ねえ。
では今日も、師匠、どうぞ。
第6章 家庭生活と、縄張り争いと
娘のJanが生まれてから18ヶ月後、初めての男の子Davidが生まれたのんは1959年1月のことでした。
生後6週で、ちょうど私が幼い頃になっとったのと同じ幽門狭窄の徴候がでてきました。私の時ほど大した手術になることもなく、Davidは数日で良うなりました。
家族が4人で手狭になったんで、引っ越ししよ、いうはなしになりました。
Wellington近くの、むき出しの丘のてっぺんに家を建てたんですが、Wellington名物でもあるごっつい季節風が吹きすさぶとんでもない場所だったんで、そこから逃げるようにして、Wellington港の北の端にあるHutt市の、丘に挟まれて風が緩やかになってる平地へ引っ越しました。
家には庭があり、良い土に恵まれていたんで、Joyと私は庭いじりに精をだすようになりました。
1960年の4月、Alisterが生まれまて、またしても引っ越すことになりました。Lower Huttの中心部に5ベットル-ムの家でした。
1963年、3男のAndrewを迎えることになりましたが、生後6週で私や兄のDavidと同じ、噴出性の嘔吐症状がでてきました。2人の子供に幽門狭窄の症状がでるのは、統計的にも珍しいのやそうです。Andrewも手術のあと、速やかに症状は回復しました。
家族との生活は大きな喜びであり、いつもバタバタ過ごしてしていました。
犬が身の周りにいてる生活が子供らにとって良いと思てましたんで、コ-ジ-犬の子犬をもろてきて、Teddyと名付けました。すぐに犬は2匹に増えました。
自分独自の治療法をはじめるまでは,私は脊椎の徒手療法に興味をもっていました。
1954年クリニックをはじめてすぐのころ、Wellingtonのセラピスト仲間のBrian Mulliganと私は一緒に技術を教え合うことにしました。
はじめはCyriaxの教科書を使っていました。Cyriaxは理学療法に理解がある数少ない医師としてよく知られていた人でした。
のちにAlan Stoddardに、より多くの事を学びました。 StoddardはLondonのBrook病院でオステオパスとして働いておられ、オステオパシ-技術マニュアルの著者でもありました。
オステオパシ-の技術はStanley Parisからも教えてもらいました。 Parisはニュ-ジ-ランドで教育を受けた理学療法士で、Stoddadのもとで勉強していたこともある人です。 ParisはThe Spinal Lesionというタイトルの本を後年出版してはります。
私はのちにイギリスへ、Stoddard先生を訪ねて行きましてん。
私らは脊椎の徒手療法について、Cyriaxの理学療法科主任をしていたJennifer Hickling女史に教えてもらうようにもなりました。 彼女は1950年代半ばに数ヶ月、ニュ-ジ-ランドに来たはったんです。
馬が合う、というやつでしょうか、Mulliganと私らがやっていた勉強会はだんだん規模が大きうなって、近隣の市からわざわざ来てくれはる人らも増えてきましたわ。