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マッケンジー先生自叙伝 Against the tide:6

日本軍の侵攻なんて話がでてきました。

マッケンジー先生、2000年の初来日されたときには感慨深いものがあったのでしょうか。

自叙伝続きます。区切りのよいところまで、今日はちょっと長めに。

 

戦争中は街が破壊されるようなことが続きどおしで、それを実際、体験したモンには忘れられんことばっかりですわ。

1942年6月、私が11歳の時です、大地震が町を襲い、大通りがメチャメチャになってまいました。両側の建物が崩落して道も通れんようになりました。

初めの揺れは夜の7時50分、棚の上に載せたぁる果物かごがベットの上に落ちてきたのを覚えてます。

大勢の人が街の3つの映画館に集まってまして、映画が始めるのを待っとった時分でした。

一回目の揺れは大したことなかったんですが、2回目の大きな揺れが10時50分に起こりました。そのころはちょうど、映画館は上映が終わって閉まったばかりでしたが、映画館のひとつでは屋根が陥落し、揺れが起こっとったんがもし半時間前やったら多くの犠牲者がでとったんかもしれんのでしたが、結局は街の人にも、大した怪我人はでませんでした。

街の近くに、すばらしく設備の整ったアメリカ海兵隊のキャンプがありました。巨大なトラックが地面を揺らしながら通るのを友達と見ていてわくわくしとったもんです。地震が起こるとすぐに海兵隊が街にやってきて、2日間のうちに瓦礫を取り除き、道を片付けていきました。壊れた家々を修繕するための用意も整えてくれました。

海兵隊の重機設備はニュージーランドには見られんもんでしたし、ブルドーザーなんてものは誰も知りません。アメリカ人はこれらの装備を使って、全て片付くまでずっと働き通しでしたな。エエ仕事をしてくれて、街は彼らのことをいつまでも忘れんですわ。

アメリカ人は日本軍がニュージーランドに侵攻しようとしとったときに、ニュージーランドを守るために大きな働きを残してくれたんで好意をもたれています。

私ら子供は海兵隊キャンプの周りをよう、うろうろしてました。街の南側の小さな飛行場にキャンプはあり、家からバイクでほんの15分ほどのとこやったんです。

入り口の警備は我々の偽造入場証に目をつぶってくれ、しばらくするとこの柄がでっかくて、人なつっこい彼らをあだ名で呼び合うようになりましたわ。

いつもガムをかんでいて、私らにもガムを箱ごとくれたり、他にもいろんなもんをもらいましたな。

彼らがしつこく、私らに年頃の姉サンがいないかどうかを確かめようとしとったのは何でやろかと、当時は不思議に思てました。

この時期数年はガソリンは配給制でした。といって車なしで家族がやっていけるわけは無かったですし、食料も配給制で、特に肉やバターは闇市で引っ張りだこでした。アルコールは厳しく統制されとったはずですが、母は、父が毎日ウイスキーをのんだくれとる、と言うてました、母はどうやってそれを知ったんでしょうなあ。

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