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マッケンジー先生自叙伝 Against the tide:9
狩猟とは、マッケンジー先生、これまたワイルドです。
ニュージーランドの田舎町ならではのエピソードのようですが、日本でいうところの、「田舎で海にもぐってよう魚とってましたんやたわ」という感じで、かの国の人たちにとっては狩猟というのも、日本で感じられるほど特別なことではないのかも??←想像だけでモノ言ってます。
では、師匠、どうぞ。
当時の学生は、大学へ入るために5つの学科に通らんとあかんかったんですが、試験の時期になって、いままで勉学から遠のいておった報いでしょうなあ、私は学科の試験を3つも落としてしもたんです。
副校長のスチュワート・ミル先生が、お前ならもっとできるはずやないか、いうて落とした教科の個人授業をしてくれました。先生の熱心な指導のたまもので、次の試験では全ての学科に通って、無事に大学に入学できることになりました。
生活は一変しました。大人の世界や将来への切符を手にしたようなもんでした。
私はのんきで魅力あふれた少年時代を、多くの友人たちと過ごしてきました。そして多くの大人たちの優しさ、寛大さにも触れました。
母は再婚せんと、ずっと社会主義者のままでした、、、それも多額の相続を得るまでは、やったんやけどね。
はじめ、母は老人ホームへ出向いて、居住者の髪の手入れをしてたんです。そこでのお客、ジャイルズ夫人と仲良うなったんですわ。
後に老人ホームが経営危機に陥って、閉鎖の憂き目にあうわけなんですが、ジャイルズ婦人には身寄りがのうて、母は私らの家へ彼女を招き入れはったんですわ。婦人は私らと数年を一緒に暮らし、私が家を出た後も数年に渡って母と生活を共にしてました。
その頃には以前の生活では持つこのできへんかった車やら、冷蔵庫なんかも手に入れてました。
ジャイルズ夫人が亡うなったあと、母は彼女の2万ドルの現金と農場を相続したんです。
その後1956年には農場を売り払って、さらに10万ドルを手にしてから母の生活は格段に良うなりました。
私がダナディンで学生をしている間、月に30、40ドルの仕送りがありまして、それは貧乏学生の懐を潤すには充分すぎるほどの額でした。
母の降って湧いたような幸運は長くは続きませなんだんです。競馬にのめりこんで、賭け事にだいぶ、つぎ込んでしもたんですわ。